吃音を隠すことの辛さ
吃音(きつおん)を隠すことの辛さ
吃音者が苦しむ理由には、本人の認知の問題があります。
吃音を「人と変わった話し方」ととらえているのではなく、「吃音はよくないもの」「吃音は恥ずかしいもの」ととらえていれば、どもってしまうことは悪であり恥ということになります。
急いで付け加えておかなければなりませんが、本人の認知が原因である、ということは本人の責任であるということではありません。
仮に、吃音者が人生経験の中で吃音をからかわれたり、奇異な目で見られることがなければ、そうした考え方は生まれてこなかったかもしれないからです。
そして、そうした背景から、吃音者はどもりをできるだけ隠そうとします。吃音には一貫性という性格があり、どもりやすい言葉は一定しています。
そこで、そうしたことばを言い換えたり、言葉を発することを中断したり、言葉を発する場面を回避したりして、吃音を隠します。
こうした処世術を身に付けることで、どもりは不可視のものになり、周囲はどもりのことをあまり気にしていないにもかかわらず、本人はマイナスの感情から吃音を隠す努力をし続ける、という事態が生じます。
他人の前でどもらないのだからいいではないか、とは言えません。必死で隠そうとしていること自体がどもりのマイナスイメージの根深さを表しているのです。
中止・回避
吃音が出そうになったときに、言葉数を少なくして対処しようとするのが中止です。つまり、寡黙になってしまえば、どもる回数は確実に減ります。
長い言葉や自然な脈絡の会話よりも短い単語で最小限の情報を伝えるようにすれば、どもりにくくなります。それに対して、そもそも言葉を発さなければいけない場面そのものを避けようとすることが回避です。
「おはようございます」がどうしても言えないということがわかっていたとします。すると、この事態を回避するには、朝の挨拶をしなければいい、という判断ができます。
「おはようございます」と言ってどもってからかわれて嫌な思いをするくらいなら、朝の挨拶自体を飛ばしてしまえばいいじゃないか、ということです。
しかし、どもりが他人からはっきり見えていない状況で、朝の挨拶を全くしない習慣を持った人がいたとしたら、十中八九、その人は変わり者だと思われるでしょう。
本当は、どもりで苦しんだ経験があって、その結果として回避行動が身についただけなのに、そんな経緯を知らない人はその吃音者を「嫌な奴」「無礼な奴」とみなすかもしれません。
他人から誤解を受けてしまうと、あいさつ以外のコミュニケーションもだんだん難しくなってきます。吃音を隠すことが負のスパイラルにつながり、さらなるつらい事態を引き起こすのです。
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